世界を受け止め、花ひらいた
「日本」のはじまりの地
奈良─歴史の大河を遡行する
2023年9月12日
関西地方にある奈良県は、京都や大阪からのアクセスもいいエリアに位置する観光地、と紹介されることが多い。だが本来、京都や大阪は「奈良からのアクセスがいい」からこそ、都市としてここまで成長した、と言うこともできるだろう。なぜならヤマト政権が誕生して以来、約5世紀以上にわたって、奈良の地はこの国の中心だった。「日本」という国そのものが、奈良から始まったのだ。
歴史の舞台の中心となったのは奈良県北西部、周囲を山に囲まれた、奈良盆地一帯だ。ここには無数の古墳、古代の宮殿跡、そして法隆寺や東大寺、興福寺、春日大社といった名高い寺社が集中している。それも、コンクリート造の現代建築の大海の中に、孤島のようにぽつんと寺院が残る京都とはまったく異なるかたちで。京都ほどに都市化の進んでいない奈良では、日本最古の歌集『万葉集』の中で歌われる山や川の景観がそれなりに保たれてきた。だから寺社や遺跡を訪れる者がわずかに想像力を働かせれば、あたかも古代の風景の中に身を置くような感覚になれる。
6世紀以前、各地に割拠する豪族たちの代表者として、統一政権を樹立しつつあった大王は当初、現在の奈良県〜大阪府東部地域で、代替わりごとに新たな王宮を造営した。政治、行政の実務は王宮だけでなく、王族や王権を支える有力豪族の居宅で分散して行われていたから、王宮の周囲は「都市」と呼べるほど発展することもなかった。
それが6世紀末頃から、奈良盆地の南に位置する明日香村周辺へと王宮の所在地が収斂するようになると、政治、経済、宗教、文化に関わる施設の数も増えていく。中でも重要な役割を果たしたのが寺院である。紀元前5世紀頃(諸説あり)にインドで興った仏教は、東アジアにおける世界宗教として、中国、朝鮮半島を経由し、6世紀中頃に日本へもたらされた。飛鳥でも、一部の豪族が私的に寺を建てる例はあったが、日本という国として、以前から信仰してきた神々とは異なる、「グローバルスタンダード」の新しい宗教を公的に受け入れることは、内乱さえ招きかねない、大きな政治的決断でもあった。
また仏教を受け入れることは、それまで日本に存在しなかった、寺院というハードウェア、仏教というソフトウェアを運用するための、大陸由来の先進的な技術、人材、文化をまとめて採り入れることをも意味する。現在、日本を訪れる海外からの観光客は、世界遺産にも指定される世界最古の木造建築・法隆寺を、「この上なく日本らしい観光地」とみなしているだろう。だが建設された当時の法隆寺は日本人にとって、「日本らしい」どころか、外来の先端技術・文化の粋を集めた、総合大学のような施設だった。
こうした国内外の政治のダイナミズムを物語る木簡などの史料、台頭する権力者たちの身を飾った華麗な装飾品、豪壮な武器武具、そして生活用具など、興味の尽きない発掘品の数々は、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館をはじめとして、奈良県内に多数点在する歴史・考古系のミュージアムで公開されている。
7世紀も末になると、都そのものを国際的なレベルに引き上げるべく、飛鳥から碁盤目状に道路を整備した藤原京への遷都が果たされる。藤原京には四方が900メートル以上ある王宮がそびえ、周囲に5.3キロメートル四方の広大な京域が設定された。有力豪族の連合政権という側面を持っていた政体も、中国の法体系を手本に、天皇とその臣下である官僚による中央集権体制へと作り替えられていった。飛鳥宮跡の調査は、ここ数年は宮殿の庭園周辺の発掘が続いていたが、2022年9月から、天皇が政治を行なった建物跡周辺に場所を移し、発掘現場自体も見学用の足場を組むなどして、間近に見られる形で公開していくことになっている。今年2023年は10月上旬から宮殿の発掘調査を開始し、11月に現地公開をする予定である。
コンパクトにまとまった飛鳥の宮殿跡から、遮るものなく目に入る限りの土地が宮域とされる壮大な藤原宮跡へ。今も残る遺跡に立つと、「集落」から「都市」に飛躍したとさえ感じるほど、スケールが拡大していることが実感される。その藤原宮跡は1966年から発掘調査が始まり、具体的な姿が徐々に明らかになりつつある。調査が済んだ箇所は埋め戻されるが、一部の柱穴の跡には朱色の杭が設置され、そこに建ち並んでいた建物の規模を想像するよすがになる。
さて藤原京遷都から16年、8世紀初めに再び都は動いた。藤原京から奈良盆地を縦断して北上、盆地北端中央部、現在のターミナル駅や県庁、繁華街などのる市街地を含む一帯に、平城京が建設されるのが、710年だ。最初の仏教文化が花開いた飛鳥から移転するにあたって、平城京では計画的に興福寺や薬師寺といった大寺院を造営するなど、宗教空間の整備も同時に行われた。
それから1000年以上の時を経て、現在もこうした寺に参拝できるのは、多くの人が大切に守り続けてきたおかげだ。近隣諸国と比べても、海に囲まれ、外からの侵略にさらされる機会の少なかった日本は、古代の文化財が非常によく残っている。だが危機が皆無だったわけではない。
19世紀に日本が近代化していく過程で、それまで併存していた仏教と神道とを明確に分離することを目指した政策を契機に、寺院が打ち壊されたり、仏教美術が海外へ流出した時期があった。多数の古寺を擁する奈良は、やはり大きな影響を被っている。そこで仏教美術を保護し、その価値を広く一般に知らしめるため、1889年に現在の奈良国立博物館の前身である、帝国奈良博物館が開館するのである。この博物館制度を含め、「危機の時代」を経て、試行錯誤しながらつくりあげた文化財保護に関わるさまざまな仕組みは、国際的にみてもユニークな存在として知られる。
現在の奈良国立博物館内の「なら仏像館」では、6世紀から14世紀頃、日本における仏像制作の黄金期に制作され、文化財保護法に基づいて「国宝」「重要文化財」の指定を受けるものも多く含む作品を、常時100体ほど展示している。
仏像の展示に関しては、質・量ともに世界最高峰と言える施設だ。展示されている仏像からは、中国・朝鮮半島の仏像を手本としつつも、自らの好みに寄せていった日本独特の造形感覚を見て取れる一方、もはや現地には残っていない、同時代の中国、朝鮮半島における最高レベルの仏像の、いわば「残像」を感じることもできるだろう。
東アジアで興隆し、やがて失われていった仏教美術の精華は、ユーラシア大陸東端の若々しい島国の中央部、奈良で花開いた。その後に京都の、そして東京の時代がやってくる。だがいまも奈良に残る遺跡や寺院、博物館は、このはじまりの時代の日本の輝きや歴史のうねりを、驚くほど立体的に保ち、伝えているのである。
取材協力:
奈良県立橿原考古学研究所企画学芸部資料課 資料係長 鶴見泰寿
奈良国立博物館 美術室長 岩井共二
奈良国立博物館
住所:奈良県奈良市登大路町50番地
電話:050-5542-8600(ハローダイヤル)
URL https://www.narahaku.go.jp/
営業時間: 9時30分~17時 (入館は閉館の30分前まで)
休日:毎週月曜日(休日の場合はその翌日。連休の場合は終了後の翌日)、12月28日~1月1日
※開館時間、休館日等の最新情報は奈良国立博物館ウェブサイトをご覧ください。
料金:名品展 ・特別陳列・特集展示
一般…700円【団体(20名以上)…600円】
大学生…350円【団体(20名以上)…300円】
高校生以下および18歳未満の方は無料(フリースクールなども同様に適用)
障害者の方と同数の介護者は無料(障害者手帳またはミライロID〔スマートフォン向け障害者手帳アプリ〕が必要)
70才以上の方は無料(年齢のわかるものが必要)
橋本麻里(はしもとまり)
日本美術を主な領域とするCultural Manager。小田原文化財団 甘橘山美術館 開館準備室室長。金沢工業大学客員教授。新聞、雑誌等への寄稿のほか、美術番組での解説、展覧会キュレーション、コンサルティングなど活動は多岐にわたる。近著に『かざる日本』(岩波書店)ほか、『美術でたどる日本の歴史』全3巻(汐文社)、『京都で日本美術をみる[京都国立博物館]』(集英社クリエイティブ)、共著に『世界を変えた書物』(小学館)、編著に『日本美術全集』第20巻(小学館)など多数。